ナイジェル・マンセル - Wikipedia
ナイジェル・マンセル - Wikipedia
ナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル CBE(Nigel Ernest James Mansell CBE, 1953年8月8日 - )は、イギリスのレーシングドライバー。
2008年現在、F1とCARTのチャンピオンを2年続けて獲得した唯一のドライバー。
1990年には大英帝国勲章・オフィサー章(OBE)を、2012年には同・コマンダー章(CBE)を受勲。2005年に国際モータースポーツ殿堂(The International Motorsports Hall of Fame)入り。
アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ケケ・ロズベルグ、アイルトン・セナらと並んで、1980年代のF1を代表する名ドライバーの1人。特に ピケ、プロスト、セナとは、まとめて「四強」もしくは「F1四天王」と呼ばれることもある。
F1歴代4位の通算31勝を記録するも、ドライバーズチャンピオン獲得は1992年の1度のみ。何度かタイトル争いに絡みながら、その度に不運や怪我、ミスに泣き、チャンスを逃がし続けたことから、母国の先輩スターリング・モスになぞらえ「無冠の帝王」と称された時期もある(ただし、マンセル本人はこのフレーズを気に入っていたらしい)。
イギリス中部の地方都市の労働者階級の家に生まれ、持ち家を売り借金を重ねながら妻ロザンヌとともに苦労して頂点まで上り詰めた、苦労人タイプのドライバーである。豪快かつ大胆なドライビングスタイルと、喜怒哀楽に富む人柄が人気を博し、「大英帝国の愛すべき息子」(Great Britain's lovely son)と呼ばれた。
[編集] プロフィール
[編集] F1以前
イングランドのウスターシャー州に生まれ、成人するまでを過ごした。マシュー・ブルトン・カレッジで工学を学び、卒業後はフルタイムのレーシングドライバーに転身するまでルーカス・エンジニアリング社で航空宇宙技術者として働いた[1]。
10歳からカートレースを始め、22歳でフォーミュラカーレースに挑戦。イギリスフォーミュラ・フォード1600(1977年チャンピオン)、イギリスF3を経て、1980年にF1のロータスのテストドライバーと、F2のラルト・ホンダチームのドライバーとなる。下積み時代は活動資金に恵まれず、フォーミュラ・フォードでは首を骨折、F3では脊椎を損傷する大事故を経験している。
[編集] ロータス時代
1980年のF1第10戦オーストリアGPにて、ロータスからスポット参戦でF1デビュー。デビュー戦では燃料タンクからガソリンがしみ出しており、それがレーシングスーツを通して背中に炎症を作ったが、その痛みに耐えてマシンを走らせた。この時は翌年のロータスのシートは仮契約の状態だったが、デビュー戦のファイトあふれる走りがチーム監督のコーリン・チャップマンに大きな印象を与え、翌年からレギュラードライバーに昇格する。1981年の第5戦ベルギーGPにてジル・ヴィルヌーヴとの接戦を制し初入賞、3位表彰台に立つ。
しかしロータス在籍時のマンセルはエリオ・デ・アンジェリスの陰に隠れ、後に「暴れん坊」といわれる時と比べると精彩がないシーズンを送ることになる。しかも理解者でもあったチャップマンが1982年12月に急逝してしまい、その後を継いだピーター・ウォーとは非常に折り合いが悪かった。チャップマンが遺したアクティブサスペンションの開発を担当し、1983年の前半戦はアクティブカーの92で出走した。
1984年の第6戦モナコGPでは、予選2位から初めてトップを走行するが、大雨の中コース上の白線に乗ってスリップし、ガードレールにぶつかりリタイアした。第9戦アメリカGP(ダラス)では、自身初のポールポジションを獲得したものの、決勝レースではチェッカー目前で壁に当たってミッションを壊して停止してしまう。マシンを降り自ら押してチェッカーを目指すも、途中で気絶してコース上に倒れ、結果的に6位完走扱いに終わった。
結局、ロータス在籍実質4年で幾度か表彰台には登るが勝利を得られず、新鋭アイルトン・セナの加入により押し出される形でチームを去った。
[編集] ウィリアムズ時代(第1期)
1985年にはホンダエンジンを搭載するウィリアムズへ移籍し、ケケ・ロズベルグのチームメイトとなる。第7戦フランスGP予選ではタイヤがバーストし、ホイールが頭部を直撃して失神。地元イギリスで行われた第14戦ヨーロッパGPで悲願の初優勝を果たす。F1出走72戦目での初優勝は当時の最遅記録だった。続く第15戦南アフリカGPでも優勝し、チャンピオン候補として急激に頭角を現す。
1986年にはウィリアムズに2度のチャンピオン経験者であるネルソン・ピケが加入。しかしマンセルとはそりが合わず、チームメイトというよりもライバルとして意識しあう。マンセルはピケ、マクラーレンのアラン・プロストと三つ巴のチャンピオン争いを展開。最多の5勝を挙げ、最終戦オーストラリアGPを迎えた時点で2位に6ポイントの差をつけてランキングトップに位置していた。しかし、決勝では左リアタイヤのバーストによりリタイアし、プロストにポイントで逆転され、ドライバーズランキングは2位に終わった。リアタイヤがバーストした時点で287km/hの速度が出ていたが、マンセルはクラッシュすることなくマシンを停止させる離れ技を演じた。この際マンセルは、三輪になったマシンを見事にコントロールし、エスケープロ� ��ドに安全に停止させる危機回避力を発揮した。
1987年は、母国での第7戦イギリスGPで、地元観客の大歓声を受けての怒涛の追い上げで30秒近い差を逆転し優勝を果たす。この年は最多の6勝8ポールポジション(全戦フロントロウ)ながらリタイアも多く、チャンピオン争いでは確実にポイントを重ねるピケに先行された。逆転の可能性を掛けて鈴鹿サーキットで行われた第15戦日本GPに挑むが、予選1日目にS字コーナーで大クラッシュ。背中を痛めてこのレースと最終戦を欠場することとなり、2年連続で王座を逃す。
1988年はホンダがマクラーレンへのエンジン供給に切り換えた事により、ウィリアムズは非力で信頼性に乏しいジャッドエンジンでの戦いを余儀なくされる。アクティブサスペンションの不調もあり、チームメイトのリカルド・パトレーゼとともに苦戦を強いられた。出走14戦(水疱瘡により2戦欠場)のうち12戦でリタイアしたが、ターボエンジン勢に食い込み予選で2位2回、完走した2戦ではいずれも2位表彰台を獲得した。この年は、トレードマークである口ヒゲを剃ったことでも話題となった。
[編集] フェラーリ時代
1989年からは、フェラーリへ移籍。前年に続きマクラーレン勢が優勢であったが、開幕戦ブラジルGPで優勝。セミオートマチックトランスミッションを初めてF1に導入したマシン640のデビュー勝利を飾った[2]。その後はマシンの信頼性不足に泣かされ、チームメイトのゲルハルト・ベルガー共々リタイアが続いたが、第7戦フランスGP以降は毎レース表彰台に登る。第10戦ハンガリーGPでは予選12番手から追い上げ、シーズン2勝目を挙げた。しかし、ポルトガルGPでは黒旗失格後も走行を続け、トップ走行中のセナと接触。5万ドルの罰金と1レース出場停止処分を受け、セナのタイトル争いを妨害したと批判された。
1990年にはベルガーが去り、プロストがチームメイトとなる。第3戦サンマリノGPでは、ベルガーに幅寄せされ接触を避ける為にダートに飛び出し、時速300kmを超える速度からスピン状態に陥ったが、1回転のスピンからそのままコースに復帰するという離れ技を演じた。
しかし、イタリア語が堪能なプロストが順調な成績を収め、チームの主導権がプロストに移ってゆくと、良好だったプロストとの関係は徐々に険悪になっていく。第8戦イギリスGPでリタイアすると、レース後の記者会見で突如引退を表明。その後はチーム監督チェーザレ・フィオリオとの関係も悪化し、覇気のないレースが続いた。第9戦ドイツGPではレース序盤にスピンしてマシンを傷めたが、修復すれば十分に走れる状態であったにもかかわらず独断でマシンをガレージに入れ棄権。第11戦ベルギーGPでもスタート直後にクラッシュし、プロスト用にセットアップされたスペアカーを使用したが、走る気力を見せず自身の判断でリタイアした。
ときに私達はテニスが起動し開くのでしょうか?シーズン終盤、ティレルのジャン・アレジが翌期のウィリアムズ移籍を断り、マンセルの後任としてフェラーリ入りすることが決定。マンセルは引退を撤回し、アレジの代わりに古巣ウイリアムズへの復帰を発表した。走りにも暴れん坊ぶりが蘇り、第13戦ポルトガルGPではポール・トゥ・ウィンを達成。しかし、前年に続きタイトル争いを邪魔したため物議を醸した。第15戦日本GPでは首位走行中タイヤ交換するが、発進時にドライブシャフトを折ってリタイア。ステアリングを叩いて悔しさを表した。
[編集] ウィリアムズ時代(第2期)
[編集] 1991年
1991年、ウイリアムズはエイドリアン・ニューウェイとパトリック・ヘッドの合作、FW14を投入。セミオートマティックトランスミッションの初期トラブルのためマンセルは序盤3戦連続リタイヤを喫し、第4戦のモナコGPでようやく2位初完走。第5戦カナダGPではスタートから終始トップを走行しながら、最終ラップの残り半周でストップ。当初ガス欠かとも言われたが、レース終了後にマシンを調べたところエンジンが掛かりギアも入ったため「マンセルが観客に手を振った際、誤ってマシンのキルスイッチに触れたのでは」という説も囁かれたが、後にマンセル本人が「セミATがシフトダウンする際に勝手にニュートラルに入ってしまう状態になっていて、駆動がかからなくなった。イグニッションを切ったのはエンストした後だ」と語っ� ��いる[3]。チームはその後、キルスイッチを手の届きにくい場所に移した。
第7戦フランスGPでシーズン初勝利を挙げると第9戦ドイツGPまで3連勝を達成し、開幕4連勝を果たしたセナとのポイント差を詰めた。第13戦ポルトガルGPでは首位快走中にタイヤ交換するが、作業クルーの誤判断でホイールナットが締まり切らないまま発進し、ピットレーンで右後輪が脱落する。その後、指定エリア外でピット作業を行ったことがレギュレーション違反とされ、失格処分を受けた。続く第14戦スペインGPで優勝し、逆転の可能性を残して挑んだ第15戦日本GP決勝では、10周目セナの後ろを走行中にコースアウトしリタイア。3度目の王座挑戦も失敗に終わった。コースアウトする直前、マンセルはピットに無線でI`m cruising now.と言っていたらしい。
競争力では中盤以降マクラーレンを上回ったものの、マシンの信頼性に難があったことに加え、チームや自身のイージーミスが重なり致命的な敗因となった。
[編集] 悲願成就
1992年、ウィリアムズはアクティブサスペンション[4]などのハイテク機器を搭載したFW14Bで序盤から圧倒的な速さを見せる。マンセルはチームメイトのリカルド・パトレーゼをも圧倒し、前年のセナの開幕4連勝を上回る開幕5連勝、さらに第8戦フランスGPから第10戦ドイツGPまで3連勝を達成。過去の苦い経験が嘘のようにチャンピオン争いを独走する。第11戦ハンガリーGPにおいて遂に念願のワールドチャンピオンに輝き、表彰台で男泣きした。最終的に16戦中14回のポールポジション、計9勝(すべてポール・トゥ・ウィン)を記録して、1988年のセナの記録13ポールポジション、8勝を塗り替えた。年間最多ポールポジション記録は2011年にセバスチャン・ベッテルが18戦15ポールポジションを記録するまで19年間破られなかった。(ただしベッテルは19戦で4回PPを逃したが、マンセル� ��16戦で2回しかPPを逃していないので年間PP率はマンセルが上である。)
しかし一方で、ウイリアムズのオーナー、フランク・ウィリアムズは自チームのマシンなら誰が乗ってもタイトルを取れると確信しており、セナやプロストも加わりシート争奪戦が加熱する。プロストは前年からウィリアムズと接触し、ハンガリーGP前に1993年の契約に成功。その契約ではプロストはセカンドドライバーを選べるオプションがあり、プロストはセナを拒否することが出来た。マンセルにしてみれば年間チャンピオンを獲得したにも関わらず、年俸ダウンかつジョイントナンバー1扱いという内容ではあったが、一度はその契約条件を呑んだ。しかし、セナがマスコミを通じて「ウィリアムズに乗れるなら無給でもいい」と発したメッセージをフランク・ウィリアムズが契約交渉に持ち出し、(プロストとの契約上)セナが加 入する可能性はないにも関わらず大幅な年俸ダウンを提示した。
政治的駆引きに疲れたマンセルは交渉を打ち切り、チャンピオン決定からわずか2戦後の第13戦イタリアGPで2度目の引退表明を行った。マンセルが本気だと知ったフランク・ウィリアムズは、急遽記者会見場にスタッフを派遣し、記者たちの面前で人目をはばからず「ナイジェル、お前の条件は全部受け入れるからやめてくれ」と懇願したがマンセルは構わず会見を続行し、「私の力の及ばない理由により、今シーズン限りでのF1からの引退を決めた」と発言した。
さらにイタリアGPの後、翌年から北米のCARTシリーズに転向することを表明した。当時、マンセル一家がイギリスのマン島から気候のいいアメリカのフロリダ州クリアウォーターに移住していたことも好都合だった。
[編集] CART参戦
1993年にはCARTのニューマン・ハース・レーシングに加入し、マリオ・アンドレッティのチームメイトとなる。開幕戦サーファーズ・パラダイスでデビュー戦ポール・トゥ・ウィンを達成。第2戦はオーバルコースの洗礼を受け、予選中クラッシュし欠場、負傷した背中を手術した。第4戦、伝統のインディ500ではレース終盤トップに浮上するが、黄旗走行後のリスタートを失敗し3位。しかし、その後のオーバルコースで4勝を挙げ、適応能力の高さを示した。結果、16戦中5勝(7ポールポジション)でシリーズチャンピオンを獲得。同時にルーキー・オブ・ザ・イヤーにも輝いた。
F1とインディカーの両方でチャンピオンとなったのはマリオ・アンドレッティとエマーソン・フィッティパルディ、マンセル、ジャック・ヴィルヌーヴの4人。2年続けて両カテゴリを制覇したのはマンセルのみ。マンセルと入れ替わりにF1参戦したマイケル・アンドレッティ(1991年CART王者)が不振だったため、F1とCARTの競技レベルを比較する報道もされた。
1994年はペンスキー勢を相手に苦戦を強いられ、未勝利(3ポールポジション)に終わる。インディ500ではピットロードをスロー走行中後続車に追突され、救急班に介護されるという場面もあった。契約トラブルやアンドレッティとの不仲によりチーム内で孤立し、シーズン終了後にチームを離脱した。
[編集] F1復帰・引退
1994年、ウィリアムズはセナの事故死後デビッド・クルサードを起用したが、F1人気低下を懸念するバーニー・エクレストンの仲介でマンセルに復帰を持ちかけた。マンセルはCARTのシーズン中、日程に影響のない第7戦フランスGPにスポット参戦し、予選2位を獲得(決勝はリタイア)。さらにCARTのシーズン終了後、第14戦ヨーロッパGPから残りの3戦に再登場した。第15戦日本GPでは豪雨の中、ジャン・アレジとの長い3位争いで一歩も引かぬバトルを演じ、健在ぶりを示した(ちなみに、これがマンセルの鈴鹿での唯一の完走でもある)。最終戦オーストラリアGPではポールポジションを獲得し、決勝はチャンピオンを争うデイモン・ヒルとミハエル・シューマッハを先行させ、2人の相打ちを尻目にポール・トゥ・ウィンを達成した。ウィリア ムズのコンストラクターズタイトル防衛に貢献し、結果的にこれがF1での最後の勝利となった。また、契約上の関係か[要出典]、このときのマンセルのレーシングスーツにはルノーのロゴは入っていなかった。
1995年はアメリカ・フロリダ州からマン島に戻り、ウッドベリーパーク・ゴルフクラブの近くへ住居を移し、本格的にF1に復帰する体勢でいた。しかしクルサードがマクラーレン入りを画策した際、所属チームのウィリアムズが提訴をし、裁判の末若くて給料の安いデビッド・クルサードの残留が決定[5]。結局マクラーレンと契約を結ぶも、コックピットが狭いとの不満を漏らして開幕2戦を欠場。第3戦サンマリノGPから参戦するも、マシンの競争力が低いことや、予選でチームメイトのミカ・ハッキネンを上回れないこともあり、モチベーションを失う。第4戦スペインGPをリタイアした後、マクラーレンからの離脱を表明した。
過去2度とは異なり正式な引退表明はしていないが、その後は事実上、F1から引退した状態になっている。1996年12月にジョーダンでテストを行い、再々復帰も噂されたが実現に至らなかった。
PGAトーナメントでのワナとは何か[編集] その他の活動
[編集] 各種カテゴリへの参加
1990年にマンセル・マジウィック・モータースポーツの共同オーナーとなり、チームは国際F3000選手権とイギリスF3000選手権に参戦した。国際F3000選手権のドライバーはアンドレア・モンテルミーニとジャン=マルク・グーノン。
現役引退後は地元でフェラーリのディーラーを経営する傍ら、自らの名を冠した博物館を運営している。ウッドベリーパーク・ゴルフクラブ(Woodbury Park Hotel and Golf Club)のオーナーとして、欧州シニアゴルフツアーの「ナイジェル・マンセル国際クラシック」を開催した(現在は経営権を手放している)。
ドライバーとしては各種カテゴリにスポット参戦したり、イベントに招かれて出走している。1998年にはアリ・バタネンと組みシャモニー24時間氷上レースに出場。イギリスフォードワークスのモンデオに乗り、BTCCの2ラウンドにスポット参戦した(最高5位)。
2001年、ミナルディの2座席フォーミュラカーによる模擬レースに参加。フェルナンド・アロンソのマシンに追突し、後ろにゲストを乗せたままマシンが宙に浮くクラッシュを演じた。
2005年にはF1の往年の名ドライバー達によるグランプリマスターズに参戦し、11月に南アフリカのキャラミで開催された第1回大会で優勝。同年12月にはBBC Twoの自動車情報番組「トップ・ギア」第7シーズン5回目の放送に出演し、スズキ・リアナを使用したタイムアタックで1分44秒6を記録し、ジェンソン・バトン(1分44秒7)やデイモン・ヒル(1分46秒3)を上回る、当時のトップタイムを記録した[6]。
2006年、グランプリマスターズ第1戦カタールラウンドで優勝。第3戦イギリスはフォーメーションラップ中にスピンしスタートできず(以後シリーズは自然消滅)。
2007年、FIA GT選手権第2戦(シルバーストーン)にスクーデリア・エコッセのフェラーリ・F430GTでスポット参戦。結果は総合21位(クラス7位)。
[編集] マンセルファミリーの活動
近年は長男レオ・マンセル(Leo Mansell)と次男グレッグ・マンセル(Greg Mansell)のレース活動を支援している。2005年、息子らのためにイギリス・デヴォンシャーにあるカート場を買収し、大規模なレーシング施設に改修したが、その際地元住民から騒音公害と近隣道路の渋滞の原因となるとして猛反発を受け、「キャンセル・マンセル」と銘打った反対運動を起こされた。2006年はイギリスフォーミュラ・BMWのチームを買収し、マンセル・モータースポーツとして参戦。また、同選手権の大使に就任しPR活動を行った。
マンセル兄弟は2007年はイギリスF3、2008年はチャンプカー・アトランティックシリーズに参戦したが、2009年はレオがアメリカン・ル・マン・シリーズ、グレッグはワールドシリーズ・バイ・ルノーに進んでいる。ふたりはユニオンジャックをかたどった父親のヘルメットデザインを継承している。
2009年9月13日、英国シルバーストーンで開催されたル・マン・シリーズ最終戦1000km耐久レースLMP1クラスにチームLNTからスポット参戦。マシンはジネッタ-ザイテック・GZ09S。息子グレッグと2006年のル・マンGT2クラスウイナー、ローレンス・トムリンソン(ジネッタCEO)との3名体制で挑み、結果は総合28位。
2010年、第78回ル・マン24時間レースLMP1クラスに息子のレオとグレッグとともに参戦。チームはビーチディーン・マンセル・モータースポーツ(Beechdean Mansell Motor Sports)、マシンはジネッタ-ザイテック・GZ09S。念願の親子でのル・マン参戦が実現したが、スタートから間もなく左リアタイアがパンクし、時速200マイル(約320km)で高速クラッシュ。リタイア後、救急車で搬送されたが軽症で済んだ[7]。
テニストップの収益[編集] 特筆すべきレース
[編集] 名勝負
- 1986年スペインGP
- レース中盤からロータスのセナとトップ争いを展開。残り9周でタイヤ交換したのち猛追し、最終ラップにセナに追いつき、最終コーナーからの加速で並びかける。両者ほぼ同時にチェッカーフラッグを受け、マンセルは勝利を確信するが、0.014秒差(距離にして93cm)という僅差でセナに軍配が上がった。
- 1987年イギリスGP
- 決勝はウィリアムズ勢が3位以下を周回遅れにし、ピケとマンセルのマッチレースとなる。マンセルは途中タイヤトラブルでピットインしたが、28秒の遅れを挽回し再びピケの背後に迫る。残り3周のストウコーナーでマシンをアウト側に振るフェイントを仕掛け、反応したピケのイン側に切り込み首位に立つ。激走により燃料切れが心配されたが、マンセルのマシンは無事チェッカーフラッグを受け、ウィニングラン中にガス欠でストップした。ご機嫌の勝者はピケを抜いた場所で路面にキスをするパフォーマンスをみせた。
- 1989年ハンガリーGP
- 予選は12位に低迷するが、決勝はセッティングが決まり先行車を抜いていく。パトレーゼのリタイア後トップに立ったセナとの差を詰め、58周目の第3コーナーでセナが周回遅れにつかまった好機を逃さず、一気に抜いて優勝した。ツイスティーで追い抜きが難しく、予選順位が重視されるハンガロリンクでの貴重な1勝。この年、首位走行中のセナをトラブル以外で同一周回で抜いたのは、この時のマンセルのみであった。
- 1989年ベルギーGP
- 2位争いでマクラーレンのプロストを抜きあぐねたマンセルは鋭角の1コーナー、ラ・ソースからの加速スピードを稼ごうと、縁石を乗り越えエスケープゾーンを大回りするコーナリングを繰り返した。ジャーナリスト達には「無意味なアクション」と失笑されたが、のちに縁石が低く改修され、他のドライバーもスタート直後の混戦で「マンセルライン」を活用するようになった。
- 1990年メキシコGP
- 予選でマンセル、プロストのフェラーリ勢は10位以下に低迷するが、決勝は2台で後方から追い上げ、タイヤ磨耗に苦しむトップのセナを攻略する。その後、スピンしたマンセルはベルガーと2位争いを展開。一度は3位に落ちるが、難関の最終コーナー、ペラルターダでベルガーをアウト側から豪快に抜き返し、プロストとワン・ツーフィニッシュを決めた。5速全開で180度旋回するペラルターダについて、マンセルは自著で「GPサーキットの最も危険なコーナーのひとつ」と解説している[8]。
- 1991年スペインGP
- チャンピオン争いに後のないマンセルは、決勝5周目に先行するセナを捉える。両者互いに譲らず、メインストレートをタイヤが触れんばかりの並走状態で駆け抜け、1コーナーでイン側のマンセルがバトルを制する。危険な超接近戦ながら、互いの技量を認めあうフェアな一騎打ちでもあった。
- 1992年モナコGP
- 絶好調のマンセルは開幕6連勝に向けて独走するが、残り8周でホイールトラブルのためピットインし、セナに首位を譲る。新品タイヤに履き替え驚異的なペースで追い上げ、残り3周からデッドヒートを展開。曲がりくねったコースで激しく仕掛けるマンセルと巧みにブロックするセナの妙技は、モナコGP名勝負のひとつとなった。マンセルはセナを抜けず2位に終わり、表彰式後のシャンパンファイトでは疲労困憊で座り込んだ。
- 1992年イギリスGP
- 練習走行・予選の全セッションでトップタイムを記録。予選はチームメイトのパトレーゼに2秒近い大差をつけポールポジション。決勝でもファステストラップ記録、全周回トップ走行と「完全優勝」を達成する。シルバーストーン・サーキットには20万人の「マンセルマニア」が詰めかけ、ユニオンジャックを振る観客の声援でマンセルの走っている位置が分かるといわれた。ウイニングラップでは興奮した観客がコースに乱入し、立ち往生してマシンから降りたマンセルを揉みくちゃにするという光景も見られた。
- 1994年日本GP
- 大雨の悪コンディションの中、フェラーリのジャン・アレジと3位争いを展開。高速130Rで追い抜きを仕掛けるなど激しいバトルを演じ、最終ラップのシケインでかわして観客を沸かせる。レース後、アレジと健闘を讃えあい表彰台へ向かおうとしたが、2ヒート合計タイムで自分が4位であることを知らされ苦笑いした。余談ではあるが、この時がマンセル初にして唯一の日本GP完走であった。
[編集] 物議を醸したレース
- 1987年ベルギーGP
- 1周目にセナをアウト側から強引に抜こうとして接触。両者スピンしセナはリタイアする。その後リタイアしたマンセルは激昂してロータスのピットへ向かい、セナと殴り合いの騒ぎを起こし、粗暴な振舞いを非難された。
- 1989年ポルトガルGP
- 予選からフェラーリ勢が好調で、決勝でもマンセルがベルガーを抜いて首位を走る。しかし、ピット作業時にチームのピットを通り過ぎたあとに後退ギアを使った為、失格の裁定が下った。ピットインを指示する黒旗が提示されたが、3周に渡ってこれを無視し、最終的に第1コーナーでセナに接触した。マンセルは「逆光で旗が見えなかった」と弁明したが、5万ドルの罰金と1レース出場停止処分を受けた。黒旗を無視して走行し続け、チャンピオン争いをしていたセナと事故を起こしたことは大きな波紋を呼んだ。
- 1990年ポルトガルGP
- フェラーリ勢が予選1列目を獲得し、ポールポジションのマンセルは僚友プロストのチャンピオン争いのアシストを期待された。しかし、スタートでマンセルが斜行してプロストの進路を塞ぎ、その隙にマクラーレン勢の先行を許す。その後マンセルは首位を奪い返し、結果的にポール・トゥー・ウィンでこの年唯一の勝利を上げるが、プロストはチームの管理能力への不満をマスコミに漏らした。マンセル自身は「ホイールスピンが激しく横滑りしてしまった」と述べ、故意の幅寄せを否定した。
- 1992年カナダGP
- この年初めてポールポジションを逃し、決勝でもセナに前をふさがれる。最終シケイン[9]でインを突くが曲がりきれず、グラベルに突っ込んでこの年初のリタイヤを喫した。マシンを降りたマンセルはセナに怒りのジェスチャーを見せ、さらにウィリアムズのピットに戻る途中マクラーレンのピットに立ち寄り、ロン・デニスに激しく抗議した。この姿はテレビ中継でも映し出されており、マンセルとデニスの確執を象徴するシーンの1つともなっている。その後競技委員に「セナにはじき出された」と訴えたが認められず。
[編集] ドライビングスタイル
コーナーへのアグレッシブな突っ込みが持ち味。ブレーキングで減速しきらないままコーナーに飛び込み、コーナーのエイペックス(頂点)に向けて素早くマシンの向きを変えるスタイルで、F1にパワーステアリングが普及していない当時、反射神経と上半身の筋力で暴れるマシンをねじふせていた。テレビ解説者のデレック・デイリー(元F1ドライバー)は「コーナーの入口からエイペックスまでの速さが命だし、そこからの平均速度も速い。他のドライバーが一番減速するところで差をつけているんだ」と解説している[10]。
精神面のコンディションが走りに現われるタイプで、気分が乗ると驚異的なパフォーマンスを発揮し、母国イギリス開催のGPでは初優勝を含めて5勝、2位2回、86年から92年まで7年連続ファステストラップ記録と抜群の成績を残した。その反面、気がはやると強引な走りで自滅したり、チーム内で居心地が悪くなるとモチベーションを失うこともあった。元チームメイトのベルガーはマンセルの性格を「ある面では感じやす過ぎるというかソフトすぎるんだけど、裏を返すと信じられないくらいファイターなんだよ」と語っている[11]。
1988年には本田技術研究所の所長だった川本信彦が、当時受けたインタビューのなかで、ラルト・ホンダのF2時代のマンセルを次のように評価している。「整然として系統立った彼のアプローチにはひどく感心させられました。事柄を想起する能力、車の反応を説明するしかたには、エンジニアとしての経歴が生きていると感じました」[12]さらに「その後、ウィリアムズ・ホンダを通じて再び彼と繋がりができたとき、ナイジェルは非常に優秀でした。ターボ車からベストをひきだすには、自分のドライビングスタイルを変える必要がある、とすぐに気づいたようです。さすがだと思いましたね」とも述べている[12]。なお、ホンダ・エンジンを搭載したF1ドライバーとしてマンセルの勝利数は13勝であり、32勝のセナに次いで2位の記録である(2008年現在)。
[編集] 人間関係
レースを離れれば愛妻家であり、家族想いの父親として知られる。1988年には水疱瘡の娘を看病して自分もかかり、F1を2戦欠場した。下積み時代から苦楽を共にした妻のロザンヌは、1992年ハンガリーGPで夫の晴れ姿を見守りながら、インタビューに笑顔で「Long wait(長かったわ)」と答えた。
直情的な性格ゆえに、他のドライバーやマスコミなどと関係を悪化させることが多かった。特にウイリアムズ・ホンダ時代のチームメイト、ネルソン・ピケとの不仲は有名で、両者は互いの情報交換を一切しない上、ホテルのロビーなどで2人同士になっても、挨拶程度の会話しかしないほど険悪な関係であった。その理由に、ピケが愛妻ロザンヌを侮辱したことが関係しているともいわれる。また、尊敬していると公言していたアラン・プロストともフェラーリ時代に不仲になった。
しかし、ロータス時代のエリオ・デ・アンジェリス、ウイリアムズ時代のケケ・ロズベルグ(当初はマンセルに嫌悪を示していたが後に和解)、リカルド・パトレーゼ、フェラーリ時代のゲルハルト・ベルガーといったチームメイト、またデイモン・ヒル、デレック・ワーウィック、ミケーレ・アルボレートらとは良好な関係を築いていた。ワーウィックについては何でも話せる親友と自著で明かしている。ワーウィックの弟ポール・ワーウィックはマンセル・マジウィック・モータースポーツと契約し、1991年のイギリスF3000選手権に出場。事故死するが獲得ポイントによりシリーズチャンピオンに認定された。ヒルについては、マンセルは92年シーズン、当時ウィリアムズのテストドライバーだったヒルを自身の後任に強く推薦しており、 デイモンは後年「このことは一生忘れない。ずっと感謝し続けるだろう」と感謝の言葉を述べている[13]。
アイルトン・セナとはコース上で幾度となく接触しながらも、激しいバトルを演じた。1991年日本GPではリタイア後私服に着替えたマンセルがピットロードでセナを出迎え、セナのチャンピオン獲得を祝福した。1992年ハンガリーGPのレース後、セナはチャンピオンのマンセルを抱きしめながら「よくやったね、ナイジェル。本当にいい気分だろ?そうじゃないか!これであんたも僕が嫌な野郎だった訳がわかったよな?この気分をなくしたり、他人に経験させたりしたくなかったのさ。」と呟き、マンセルに祝辞を述べた。
無名のマンセルに注目し、F1デビューを手助けしたのはモータージャーナリストのピーター・ウィンザーとロータスのアシスタントマネージャーのピーター・コリンズだった。ウィンザーは後にウィリアムズの主要スタッフとなり、マンセルをサポートした。コリンズがリオデジャネイロのビーチで溺れかけた時、マンセルが救助して恩返ししたこともある。
ロータス時代、折り合いの悪かったピーター・ウォーから「オレのケツに穴があいている限り、オマエは優勝しない」と批判された。その後マンセルは自伝でこのことについて触れ、「今ではきっと、ひどい便秘になっていることと思う」と皮肉った(通算31勝)。
マクラーレン代表のロン・デニスは「世界中で契約できるドライバーがマンセルだけになっても、私は彼と契約しない。」とまで語っていたほどマンセルを評価していなかったが、1995年にはそのマンセルと契約した。契約にあたってはセナの死亡、プロストの引退などによる人気の低下を懸念したFOCA側の思惑があり、ミスマッチとも思える契約につながったが、このようなコンビが長続きするわけもなく、4戦限り(実際に走ったのは2戦のみ)で契約解除となった。
[編集] 「マンちゃん」
1985年-1987年と3シーズンに渡ってホンダエンジンをドライブした上、その豪快なドライビングスタイルや、苦労人としてのレーシングキャリアが多くの日本のファンの支持を得て、親しみを込めて「マンちゃん」と呼ばれ絶大な人気を博していた。かつて存在した公式ファンクラブ「ザ・ナイジェル・マンセル・オフィシャルファンクラブ」は、母国イギリスのほか日本支部があった。
このあだ名を命名したのはモータージャーナリストの舘内端。舘内はマンセルの生地を訪問し、1992年に『マンセルが好きだ!』[14]なる著作を出版。日本GP必勝祈願のため東京日本橋から鈴鹿まで行脚するほどのマンセルファンだった(舘内曰く、片仮名の「マンチャン」が正しい表記[15])。また、同業者の西山平夫もこのフレーズを愛用した。フジテレビのF1中継で実況をしていた古舘伊知郎も、ウイリアムズ復帰後に使用していた事がある。他に、古舘語録においては「暴れん坊将軍」「荒法師」が多く用いられた。
[編集] レッド5(レッドファイブ)
1985年にウィリアムズへ移籍した際、チームメイトのケケ・ロズベルグとヘルメットのカラーリングが似ていたため、チームクルーや他のドライバーが区別しやすいようにと、当初、通常通り白字だったカーナンバー「5」が、シーズン途中から赤に変更された[16]。赤を選んだ理由について、マンセルは「イギリス空軍のレッドアローズからいただいたアイデア」[15]と発言しており、第1期ウィリアムズ時代はレーシングスーツも赤色だった(チームメイトは白いレーシングスーツ)。
このマシンで当時としては最遅記録となる参戦72戦目でのF1初優勝を遂げ、以来「赤いNo.5=レッド5」はマンセルのトレードマークとなった。ロズベルグが1985年限りでチームを離脱し、チームメイトがピケ、パトレーゼと交代する中においても、フェラーリ移籍まで一貫して「レッド5」を付け続け[17]、その後も1991年からの第2期ウィリアムズ時代、1993年のCARTに転向初年度にも、「レッド5」を付けていた[18]。
1994年には、CARTではディフェンディング・チャンピオンの証である「No.1」、シーズン終盤にウィリアムズから復帰したF1では「No.2」となり、トレードマークの「No.5」は使用されなかったが、それぞれで赤字ナンバーは継続された。F1最終シーズンとなる1995年のマクラーレンでも赤いナンバーだったが、この場合は特別に変更したわけではなく、チームは元から赤字のカーナンバーであった。
1998年にBTCCにスポット参戦したときは、「No.5」はジェームス・トンプソンが使用していたが、「No.55」を赤字にして登場。BTCCのカーナンバーは黒となっていたが、例外的に赤いカーナンバーが認められたものであった。2005年に開催されたグランプリマスターズでも、赤いカーナンバー5を付けている。
[編集] ライオンハート
攻撃的なスタイルを、かつてイングランドを支配した勇猛なリチャード1世の渾名、獅子心王(Lion hearted)に準えたもの。フェラーリ在籍中、イタリアのティフォシにはイル・レオーネ(Il Leone)と呼ばれた。
レース中以外にも、マンセルは多くの逸話を残した。
- 1953年生まれだが、現役時代のプロフィールでは1年鯖を読んで「1954年生まれ」と言っていた。
- レーサーになるためエンジニアを辞めた後、マンセルはビルの窓拭きのアルバイト、妻ロザンヌはガス会社のパートをして生計を立てた。F3参戦のため自宅を売り8000ポンドを捻出したが、資金は6週間で底をついた。妻に内緒で売り払ったため、資金がなくなりレースができなくなった際に妻にボロクソに言われた[3]。
- フォーミュラフォードでは首を2か所骨折したが、全治6か月の診断にも関わらず病院を抜け出し、首にギプスをはめてレースに復帰し、その年のシリーズチャンピオンを獲得した。F3で脊椎を傷めた時も、2日後に鎮痛剤を通常の人間の7倍(一説には6倍)打ちロータスのF1走行テストを受けた。ロータスのマネージャーに「事故でひどい怪我をしたそうだが」と聞かれると、「同姓同名の別人でしょう?」と答えた。
- デビュー戦の1980年オーストリアGPで燃料漏れで大火傷をした際にハムストリング筋が縮んでしまい、それ以降、歩行に支障が出ている[19]。
- 1985年シーズンのシート探しの際に、反射神経の良さを見せようと、高く掲げたコインを落とし、テーブルに落ちる前にキャッチする、ということを相手に見せて回っていた。
- 1986年メキシコGPは優勝すれば初チャンピオンを決められる状況だったが、パーティーで食べた肉に当たり、レースウィーク中ひどい腹痛に見舞われた。決勝は5位に終わり、悲劇の最終戦オーストラリアGPを迎えることになる。
- 1987年オーストリアGPはスタートで2度赤旗中断、再レースとなったが、2度目はマンセルの失速による多重クラッシュが原因だった。大迷惑をかけながら優勝したマンセルは、表彰台へ向かうオープンカーに乗っていた。観客に手を振ろうと立ち上がった際、ちょうど車が橋の下を通過しようとしていたため、橋桁に頭を思い切りぶつけてしまい、頭を抱えながら表彰台に上がるハメになってしまった。このレースは前日に親知らずを抜き、鎮痛剤を飲みながらの出場だった。
- 1987年日本GPのクラッシュは宙に舞うほど激しいものであり、本人も背骨を損傷し呼吸困難な状態に陥った。翌朝集中治療室で目が覚めた際、部屋の隣人が一人、二人と亡くなっていくのを見て「旅は3人でするのが良いと言われているから、自分にもお呼びがかかると思った。後にも先にもこんなに恐ろしい思いをしたことはない」と後に語っている[19]。
- エンツォ・フェラーリから直々のオファーを受けた最後のドライバーと言われる。既に病床のエンツォはオファーを出す立場ではなかったとの説もあるが、マンセル自身はエンツォと数回に渡って会食をしており、直々のオファーを受けたとも言っている。
- 1989年ブラジルGPでは、この年フェラーリが投入したセミオートマチックギアボックスのトラブルなど、マシンの信頼性の低さから、5周程度でリタイアするものと考えていた。この為、マンセルはリタイヤ後すぐに帰国するつもりで、ブリティッシュ・エアウェイズのパイロットに、レーススタートから間もない時間でのロンドン行きのチケットを手配させた。レースは開始してすぐにチームメイトのベルガーが接触リタイア。「次は俺のマシンの番だ」と思い「潰れるなら早い方がいい」とプッシュしていったところ、先頭に立ちそのまま優勝。当然予定していた飛行機に乗れなかった。レース後、表彰台で優勝トロフィーを受け取ろうとしたマンセルは、トロフィーのとがった部分で指を切った[20]。このレースでは、ステアリングホイールが外れそうになり、ピットストップで5本のホイールを交換することになった[20]。
- 1991年スペインGPでは、チャンピオン争いの渦中にいながら記者とのサッカー大会で左足首を捻挫し、レース出場が危ぶまれた。セミオートマチックシフトのおかげで左足のクラッチ操作が不要になったのが幸いした。
- 趣味はゴルフで、下積み時代に事故で負傷した際、妻にリハビリとして勧められたのがきっかけ。腕前はハンディ2で、全豪オープンゴルフにアマチュア出場した経験もある。現役時代はバドックで「引退したらプロゴルファーになるのでは」という冗談も囁かれていた。プロゴルファーのグレッグ・ノーマンとは友人で、次男に「グレッグ」の名前をもらうほどの親交がある。
- 学生時代に習った空手をトレーニングに取り入れ、上地流沖縄空手道協会初段(黒帯)を取得。この試験を受けるためにわざわざ沖縄まで行った。
- 2003年、ジャージー島の自宅の庭に侵入した不審者8人と格闘し、頭を怪我した。
- 1992年シーズンの強さに関しては、FW14Bのライドハイトをマニュアル制御して直線速度を稼いでいたという説がある。
- 1987年のホンダエンジン搭載時の話として、アイドル回転数を1800~2000rpmに設定するセナに対し、マンセルは3500rpmと「ブレーキング時にも回転が落ちない」セッティングを好んだ[21]。
- 初めてオーバルトラック仕様のCARTマシンに乗ったとき、「スタッガー」と言われる左右のタイヤ直径が異なるセッティングでハンドルがニュートラルの状態でも左に曲がることを知らず、「この車は壊れている」と言ったことがある。
- トレードマークであった口髭であるが、最近では「無い方が10歳若くみえる」と言われ剃ってしまった。本人は未練はあったものの、妻にも好評とのこと[3]。
0 コメント:
コメントを投稿