【レビュー】黒崎健時著 「私は見た! 昭和の超怪物」 (1989年) | 拳の眼
【レビュー】黒崎健時著 「私は見た! 昭和の超怪物」 (1989年) | 拳の眼
さて、今回はウチに検索して来られる方の多い黒崎健時先生の著作「私は見た! 昭和の超怪物」をレビューします。
タイトルだけ見ると学研ムーブックスみたいですよね。 でも基本的なテーマは怪力でその名を馳せ、数々の有名格闘家にウェイトトレーニングを指南して来た若木竹丸先生についてです。 つまり若木先生を指して「昭和の超怪物」と言ってる訳です。
若木先生については一度その著書をレビューしていますので、そちらをご参考下さい。 それでは序文を紹介しましょうか。
たいへんな人物がこの世に出たとき、その人は、十年に一人の天才だとか、二十年に一人の怪物だとかの言葉で賞賛を浴びる。 こうした言葉にしたがって、私が若木竹丸先生を呼ぶならば、それは「一世紀に一人出るか出ないか」の大傑物であると断言できよう。 今後ふたたび、力技界に先生のような人物はおそらく出ないと思う。
私はこうした人物に出会い、教えを乞い、意見を交わす機会にめぐまれた。 そしておのれの幸運に多いに感激した。 このような経験は、私にとっても初めてのものだった。
私はこうしたすばらしい経験を自分だけのものにするのではなく、本書を通じて読者、とくに日本の未来を担う若い人たちと共有したいと思った。
若木先生の本当の姿の何分の一かでも知ってもらえれば、それは何十冊ものトレーニング書を読むことより、はるかに大きな意義があると思う。 そして自らの稽古に大いに参考となろう。
志と目標、情熱と執念、創意と工夫……。
これらを身をもって示したのが若木竹丸先生である。 先生の経験とその運動精神を学ぶことこそ、我々がいま背負っているさまざまな問題や困難を解決するための入口であると、私は考えている。
しかし、偉大な天才も結局は普通の人間であるに過ぎない。 若木竹丸がやったことを我々がやれないことはないのである。 いや、絶対やらねばならない。 それは若木先生その人が説いていることなのである。
平成元年 初夏
黒崎 健時
ついで目次。
第1章 鉄人は一朝一夕にしてならず
「こころ」の貧困
やる気を持つ
ときには動物になれ
まず汗をかけ
おのれを燃焼せよ
好きこそものの上手なれ
迷いを持つな
大胆にかつ謙虚であれ
繰り返すことで慣れる
肉体を全開する
身体で考える
常識を越える
インラインスケートは、オーストラリアで人気になった時
第2章 若木怪力法の秘密
超怪物・若木竹丸
若き先生との出会い
怪物の人となり
ボディ・ビルダーと若木竹丸
若木先生とボクシング
若木先生と柔道
若木怪力法と大山倍達、木村政彦
身体づくりに賭けた情熱
創意と工夫こそ若木怪力法の真髄
時と場所と手段を選ばず第3章 若木怪力法から何を学ぶか
若木先生とその時代
精神と肉体の統一
努力の過程を知る
孤高の精神を学ぶ
苦を楽にする
まず基礎体力をつくる
「科学的トレーニング」に異議あり
時間を有効に使う
一流になる条件
第4章 対談・若木竹丸&黒崎健時
サンダウ伝記との出会い
ボクシングにおける体づくり
初めて語る相撲歴
努力と工夫で記録を伸ばす
強くなるのは本人の気持ち次第 要約すると第1章は黒崎先生自身の体験から精神、肉体論。 第2章からが若木先生の評伝とそのエピソードに見る教訓等、そして第4章が対談です。
当ブログ的にまず目に付くのは第2章の「若木怪力法と大山倍達、木村政彦」でしょうが、先にボクシングと柔道のエピソードから。
1931年頃、若木先生は当時目黒にあった日本拳闘倶楽部(日倶)に入門しようと出掛けると、早速リングで手合わせする事になります。 当時20歳だった若木先生ですが、既に4年近く身体を鍛えており、2年ほど前からはボクシングを学ぶ日を思いボクシングの為の鍛練を行っています。 そこで既に現役を離れて久しいとは言え「日本ボクシングの父」と呼ばれる渡辺勇次郎会長(当時44歳)が実力を試した所、パワーで勝る若木先生が圧倒してしまい、道場破りの様相を呈して来ます。 次に当時鳴り物入りでプロに転向したばかりで無敗だった徐廷権氏が若木先生に挑みますが、徐氏も何回もダウンを喫してしまいます。 ちなみに徐氏はこの翌年には世界バンダム級6位となる逸材でした。 他にはアマでウェルター級チャンピオンだというS氏も問題にならなかったと言います。 残念ながらこの噂がボクシング界に流れてしまい、他のジムでも断られてしまい、ボクシングの選手になるのは適いませんでした。 その後若木先生はこの様に話しています。 「もし私がタイソンと同年代に生まれていたら彼とやりたかったね。 身体は僕の砲が小さいけれど、負けない気がする。 実際私はどんなパンチがきたって大丈夫だと思う。 それがたとえタイソンのパンチであってもね」
柔道に関しては村田与吉三段(当時)や専修大学柔道師範の芦野博五段、後には木村政彦と言った強豪が怪力法を学びに来ており、村田三段には怪力法を教える代わりに柔道を学んでいました。 特に寝技にはかなりの自信があったとの事。 そこで若木先生は講道館に赴き、段を取りたいと申し出ます。 有段者が数人現れ何段を取りたいのかと聞くので、こう答えます。
イタリアのいくつかのsoprtsは何ですか…若木先生は「四段を何人負かしたら五段になれますか」と尋ねると、彼らは「君は何段ですか?」と言うので、若木先生は「私は級も段も持ってはいない」と答えた。
彼らは若木先生の頭がどうかしていると思ったのか、「そんなことは許されない」と言い、それ以後若木先生を相手にしなくなったという。
さて、黒崎先生は大山倍達総裁の話にも言及します。
私が師事していた大山倍達先生も、おそらく若木先生からトレーニングのヒントを得ていると思う。 だから「大山空手は空手じゃない。 ボディビルだ」という批判をする者もいた。 しかしこうした批判は「若木怪力法」の本当の姿を見ていないから言えるのである。
(中略)
大山先生も、最も重要なのは、「力」、ついで「スピード」、第三に「技」と言っている。 これは、筋力、パワーがいかに重要かを説いたものである。 大山先生が世界的な格闘家となって活躍できたのも、不断のトレーニングによる体力づくり、パワーアップをはかったからである。
じっさい大山先生は、自分が世界を股にかけて活躍できたのも、バーベル・トレーニングによる鍛練の賜物だということを言っている。 まことに正しいトレーニング法だったわけだ。
また「木村の前に木村なし。 木村の後に木村なし」といわれた不世出の柔道家、木村政彦氏もまた若木トレーニング法の実戦者だった。 そして黒崎先生は若木先生から何を学ぶべきか、こう結論付けています。
若木先生から何を学ぶか。 それは結局のところ「執念」なのではあるまいか、と私は考えている。
強くなりたいという執念こそが、若木竹丸を創り上げたのである。 そして強くなるためには人の十倍、二十倍の練習を積むのは当たり前だと考える。 若木竹丸の本質はここにあると思う。 そして私はこの考え方がたまらなく好きだ。
他人と同じ時間だけしか練習しないが、より短時間で効果を出そうという考え方を、私は否定する。 いや短時間で効率を求める考え方は必要なのかもしれない。 運動の効率性を私は否定しない。
しかし短時間で人の二倍、三倍の効果があるならば、人よりもっと練習すれば、二十倍、三十倍の練習をやったことになるのではないか。 こういう考えを持たなければならない。 若木竹丸こそ、まさにこの考え方を実践したのである。
だからこそ、若木先生は一流になったのである。 はたから見るとバカバカしいことでも、当然のようにやった。 そうした努力の積み重ねだったのである。 最後の第4章は黒崎先生と若木先生の対談ですが、互いに謙遜したり、時に噛み合ってなかったりと色々面白いですが一部だけここに書き出します。
アメリカのleugeでどのように多くの野球チーム?
黒崎 では、パンチの強さはどのようにして作ったのですか?
若木 そうですネー。 私の場合一番大きな役割をはたしているのはプロン・プレスとショルダー・ブリッジという二種目の寝差しですね。 ベンチプレスは後に出て来ましたが、私には今似てベンチ・プレスなど必要としません。 もちろんベンチ・プレス結構ですよ。 両方共ボクシングのパンチ養成には有効なものとは思いますが、ベンチ・プレスなるものは常にヒジを両脇より下げて行うものであるため、両脇で止めるプロン・プレスやショルダーブリッヂの方がどうしても相手にパンチを送る速度が早くなり、距離も近くなる。 なにしろ相手の顔面にいかに早くパンチを送るかが問題ですから。 一瞬早く相手に届くプロン・プレスやショルダー・ブリッヂの方がボクシングでは有利であることは考えるまでもありません。
格闘家を志すならプロン・プレスかショルダー・ブリッヂをやればいいのです。 猫もシャクシもベンチ・プレスで、特に外人がやってるから優れてるとでも思ってるのでしょう。
黒崎 そりゃー分かりますが、それならベンチ・プレスでやる時に両肘を両脇より下げなければいいわけでしょう。
若木 勿論そうなります。 でも、それならわざわざベンチの上でやる必要もないと思います。 大体格闘技は床の上でやるものでしょう。***
黒崎 理にかなっていますね。 では、一つお聞きしますが、先生が考える、ジャブを強くするためのバーベルでの差しかたなんかありますか。
若木 ハイ、これは僕独特のものですが、寝差しで二〜三十回はワンセットで楽に差せるバーベルを使用します。 そのバーベルを途中まで差して止め、それを出発点としてそれから先だけのトレーニングをやるわけです。 それも出来るだけ早く突き出すのです。 あるいは、三分の二まで差し、そこで止め、後の三分の一だけの差しを早差しするわけです。 それもジャブ同様の早さで。 始めはちょっとぎこちないですが慣れると楽にできます。 ただ、一つ注意すべき点は、早く突き出せるようになった時、シャフトが手から離れでもしたら大変ですから、紐を輪にしてシャフトに結び、手の甲や、手首にひっかけておくと安全です。***
黒崎 日倶へ行った時のことですね。 入門しに行ったのですが、結果は試合ということになりましたね。 門を叩く前に先生なりの心構えが何かあったと思いますが、いかがでしたか。
若木 これはきっと黒崎先生と同じだと思うのですが、万が一、戦うことになれば、相手がさーこいと、十分に構えているところに飛び込む先制攻撃ですね。 もちろん、この先制攻撃も間合の取りかたが問題ですが……。
黒崎 強靱な肉体を持っていれば「打たれても痛くないんだ」という自信の裏づけになるわけで先生の考えは大変理にかなってますね。 ところで日倶へ行って実際にボクサーと戦ったわけですが結果はどうだったのですか?
若木 渡辺勇次郎氏や徐廷権氏等と戦かった時、彼等が打ってきたパンチはまるで体にこたえなかった。 反対に僕のパンチが入るたびに彼等をはぶっとびました。
黒崎 そうでしょうね。 先生の太い腕でブロックすれば、相手のパンチなどきかないでしょうし、その力で打てば相手は確実にすっとんだでしょう。
若木 それについて先生に一言いっておきたいことがあります。 と申しますのは、渡辺勇次郎氏が私と戦った時は氏が現役を引退して十年もたった時で、全盛時の力は勿論無くなった時だと思いますし、また、徐廷権氏は私と戦った翌年、世界七位になったとはいえ、フライかバンタムという軽量でした。 だから渡辺氏が引退十年後もなお指導していたとはいえ、もはや昔日の面影はなく、僕の方が強かったからとて自慢にもならないし、ましてや当時の私より三階級ばかり下の軽量級の徐廷権氏など負かしたからとて何の誇りにもならないことなのです。 (中略)徐廷権
ところで、私が渡辺勇次郎氏や徐廷権氏を相手に彼等を問題にしなかったという事が知れ渡りますと、ボクシングの専門記者達が騒ぎ出して、最初にその記事をベースボールマガジン社発行のボディビル誌に載せた小島貞二氏などは、今後この様な記事は書かないでもらいたいと言われた様です。 ところが、しばらくして徐廷権氏が日本に何か用事で来ました。 そこで記者が渡辺氏対私、徐氏対私の拳闘での件を問いただした様です。
それから何日かして小島氏からこんな葉書が私宛てに送られて来ました。 その葉書の後半に……いま徐廷権が日本に来ていて、中村金雄さんが「プロボク誌」の記事でインタビューしたそうですが、例のあなたの一発でのびた話は、きいても向こうが話題を外らしたそうです、今でもショックなのでしょう、取材記者よりききました。 ……と。***
黒崎 先生が目的のために無我夢中でやっていたことが、自然に限界を伸ばしていったわけで、自分の持っている一〇〇パーセントの力、時にはそれを超えるような力を毎日出していったのでしょう。 苦しい時も何度かあったでしょうが、それを、歯を食いしばってやってったからこそ、超怪物の体づくりができたのですね。 想像しただけでも夢中になってトレーニングしている姿は大変楽しいですね。
ところで、苦しい時にはどんな工夫をされて乗り切りましたか?
若木 人は誰れかが見ていると一生懸命やりますね。 それは私とて同じです。 でも私の場合、見てくれる人は一人もおりません。 ですから、練習で疲れてくると、かならず仮想の相手を作るわけです。 次第に運動が苦しくなって来た時にですね、こんなことを考えるんです。 まず最初に私が持ち上げて、次は仮想の相手が持ち上げることにするのです。 その間、私は休むのですが、キチッと心の中で時間を計って、仮想の相手が終わり、次は自分の番という具合いにします。 最高に苦しくなったら、仮想の相手をもう一人増やして、三人で競いあうようにするんです。 さあ、こんどはお前の番だという様にして。 相手がいれば苦しいなんて思ってられないですから。 という事で黒崎健時先生の「私は見た! 昭和の超怪物」でした。
若木竹丸先生との対談ではインタビュアーに徹するというちょっと珍しい一面が見られますね。 色々と面白い話をされているのですが、残りは直接ご覧になって下さいw
ところで徐廷権氏とのスパーリングですが、記録を見ると若木先生と対戦した年の4/20がデビュー戦で、大体毎月2〜3回試合を行っているのですが、8月だけは全く試合がありません。 正確には7/23〜9/16まで試合が無かった様です。 という事は…7月末か8月中に対戦したのかなぁと思ってたりします。 徐氏の当時の実力は、デビュー戦から翌年の8/11に負けるまでに32戦23勝9引き分けという記録を打ち立てていますので、体重差があったと言っても若木先生の実力は本物だったと思います。
それでは、また。
参考文献:
Masutatsu Oyama, What is Karate? EVERYONE CAN PRACTICE KARATE MYSTERIES, Tokyo-News Co., 1958
ゴング1月号増刊 日本名ボクサー新100人 日本スポーツ出版社 1983年
私は見た! 昭和の超怪物 黒崎健時著 スポーツライフ社 1989年
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